2021年08月24日(火)

「イスラエルよ。もし帰るのならー主の御告げーわたしのところに帰って来い・・ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」エレミヤ4:1



忌むべき物を主の前から取り除き、いばらの中に種を蒔かず、耕地
を開拓せよ、そして心の包皮を取り除けと言っている。種を蒔く時
に、いばらがはびこっている地に蒔く人はいない。まずいばらを取
り除いて、よく耕して種を蒔く。いばらは、種蒔きのたとえで「こ
の世の思い煩いや富への惑わし」とある。

この世の様々な心配、思い煩いは、いばらのごとく、強い力でぐん
ぐんはびこり、御言葉をふさぎ、信仰をふさいでしまう。実を結ば
せない。そして古い性質には、主より、目に見える金銭に頼る心が
根深くある。主が、絶対に必要を与えて下さるのに、金銭が無いと
不安で不安でたまらない。金銭が生活を保障してくれ、楽しみを与
え、夢を叶えてくれると勘違いしてしまう。

金銭が神になり偶像になっていて、気づかない。まず、いばらを除
けと。御言葉が心に落ちても、それにまさる勢いで、いばらがおお
いふさぐ。それなら信仰人生に、実を結ぶ事が無い。「心の包皮」
は当時男子は皆、割礼を受けたが、主に従うなら割礼は意味がある
が、外側だけの割礼なら何の意味もない。実際には、心は主から離
れているのに、宗教的形だけ繕い、形骸化している。

そしてそこには、頑なな心がある、主は、いばらや包皮に気づかせ
て下さる。主から心が離れている事に気づかせて下さる。それを認
める時、悔い改めたり、除く事ができる。それらを除き、生き生き
とした喜び溢れる歩みへと導き入れて下さる。
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主を悲しませている様々な問題を、御霊を通して日々気づかされる。
御霊の促がしに従って悔い改めを祈ろう。心はどこに行っているのか、
帰って来いと言われる主がおられることは、何と有り難いことか。