2022年01月24日(月) 「主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の 小麦粉一セアが一シュケルで、大麦二セアが一シェケルで売られる ようになる』U列王7:1
「主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の 小麦粉一セアが一シュケルで、大麦二セアが一シェケルで売られる ようになる』U列王7:1
エリシャの時代、飢饉で食物が無く、人々が餓死する中、エリシャ が「明日小麦や大麦が溢れるばかりにある」と語った。すると侍従 が、そんな事はあり得ないと言った。エリシャは「あなたはそれを 見るが食べられない」と告げた。 そんな時、四人のらい病人がサマリヤの門にいた。町は大変な飢 饉、 どうせ自分達は必ず死ぬ。それなら敵の陣営へ入ってみようと。も しや食料があるかも知れない。すると神が敵に、大軍勢の騒ぎを聞 かせられ、襲撃と勘違いするようにされた。敵は驚き恐れ、陣営を 置き去りにしたまま逃げ去った。 それで入ると、山ほどの金銀と溢れる食料があった。彼らは王家に 知らせた。王は信じなかったが、偵察により事実を知った。すると 大勢が殺到したので、門の管理をしていた侍従は踏みつけられ死ん だ。エリシャの言葉通りになった。実際、溢れるほどの食料を主は 用意された。しかしそれを信じなければ、自分のものにはならな い。 溢れる食料がそこにあるにかかわらず、飢えて死ぬ事になってしま う。私達も同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義と される事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死す るように、溢れる恵みの中で、不信仰でいないだろうか。 自分で恵みを遮断し、受け取れない侍従は、自分の姿だろうか。信 じようとしない自分に気づく事から始まる。そのまま祈りに持って 行ける。主はその祈りに答えて、信仰へと導いて下さる。 ------------- 自分を見るとできる要素は何もないが、そこから主の御言葉へと信 仰を向けるなら、まだ手にしていない祝福を見つける。信仰をもっ て踏み出そう。溢れるばかりの恵みを受け取りに行こう。