2004年05月24日(月)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません」(詩編51:17)

子供の頃、よく経験があるのではないだろうか。兄弟喧嘩をすると、親が仲裁に入る。親は強制的に、双方に「ごめんなさい」を言わせて喧嘩終了にする。その「ごめんなさい」は強いられての謝罪だ。だから、親が見えなくなった途端、喧嘩再燃だ。「最初にやったのはそっちだ」。双方悪いと思っていない。強制された謝罪は、相手に対する気持ちも態度も何も変える事が出来ない。神に対する悔い改めも同様だ。口先だけの悔い改めは、心に何の変化も起こさない。この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れていると、主が言われた通りだ。した事の結果が悪かったと思うだけで、心が変えられる事は無い。「世の悲しみは死をもたらします」だ。しかし、聖霊に導かれた悔い改めは心が変えられる。それは態度と行ないとなって表われ出る。必ず悔い改めにふさわしい実を結ぶ。
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悔い改めとは、単なる後悔ではなく、深い罪の認識であり、180度方向変換することである。聖霊の光の照らしに、うながされ、応答することであり、頭の中、口先だけの事ではなくて、全人格におよび、心と態度、生活が変えられて行くことだ。