2006年08月24日(木)

「キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」ガラテヤ2:16




人間のプライドは、自分の力を誇
る。自分には力があり、頑張れば
神のようになれると思う。しかし、
聖書は言う「人間は罪人であり、
自分の救いのために出来る事は何
一つない。ただキリストの恵みに
より頼むのみ」と。それは人間の
プライドに相反し、受け入れたい
ものではない。プライドは、人間
は徹頭徹尾、悪ではない、善もあ
り義もあると思いたい。
それで自分の力で頑張ろうとする。
恵みは救いまでで、救われた後は、
恵みは吹っ飛び、自分の力で戒め
を行ない、信仰を深め、更に良い
人間になろうとする。
すべてプライドのなせるわざだ。
しかしその努力は、いっさい神に
受け入れられず、認められない。
逆に、神が求められるのは、まさ
にそのプライドを捨てる事だ。
それは肉には拒否反応だ。自分が
拠って立つ所だから。神の前に降
伏する事こそが、真の幸せと満ち
足りた喜び、平安を持つ事になる。
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救われた時に全身に満ち満ちた値
なしに救われたあの喜びが、徐々
に変化していってはいないだろう
か。肉の自分では決して状態を改
善する事はできないのに神様を押
しのけて生きてはいないか。