2008年11月23日(日) 「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」マタイ6:2
「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」マタイ6:2
当時の律法学者やパリサイ人たちは施しをしていた。主は施しを否定されたので はなく、「人にほめられたくて」人の賞賛を得るためにする事を禁じられた。 彼らは動機が間違っていた。 貧しい人々に施しをするのは、その人々のためではなく、人々から立派だと思わ れるため、自分たちのための施しだ。つまり貧しい人を利用して、自分を高めて いた事になる。 そして「ほめられたくて」行なっていた。天の父ではなく、自分たちが崇められ ようとした。神に栄光を帰するのでなく、自分の栄光のためであった。私たちに もかなり根深く、人の評価を求める心がある。 人に認められたい。善行をして感謝が返って来ないと、何と常識のないと、怒り が湧くだろか。又は落ち込むだろうか。それは相手を愛して行った善行ではなく、 自分のためのものだからだ。しっかり見返りを求めている。 実は目に見えない神よりも、目に見える人からの感謝、評価の方が心を満足させ る。心を満たしてくれる。しかし、それは神の御前でなく、人前で生きている事 になる。神からの栄誉よりも、人からの栄誉を求めている。 神ではなく自分を愛している。人の栄誉を求めて生きる時、神が見えなくなる。 神を信じる事ができない。人からの報いを捨てる時、神からの報いを求め、神を 信じて行く。自らも弱い者である事を認めて、主の助けを仰ごう。主が心を砕き、 御前に生きる者へと変えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 施しが隠れているとは、全く人からの報いを求めない事だ。自分と主との関係で、 主のために、善行をしたのであれば、相手の反応に影響される事はない。人に認 められたい弱さがある。そのまま主のもとへ行き告げよう。気づき与え導いて下 さる。