2009年02月21日(土)

「もしあなたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし・・『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」ヨハネ9:41

見えない世界を見るために、重要な事は何だろう。
まず光が無ければ絶対に見えないが、自分が見えていない事実を知らなければ、
決して見えるようにはならない。自分が見えていると思っている限り、ずっとそ
のまま、見えないままだ。

では、見えるためには、どうすればよいのか。自分が見えていないと認めること
だ。その時、主が見えない目を見えるようにして下さる。

パリサイ人たちは自分は見えていると言い張った。しかし、「人間の教えを、教
えてとして教えるだけ」で、人間の教えのために、神の言葉が何も見えていなか
った。

本当は盲目であるのに、見えていると言う。見えていないと気づくなら救いがあ
るが、見えていると言い張るところに罪がある、と主は言われた。

人は、自分が正しいと思い込むと見えなくなる。物理的には見えていても、霊的
盲目状態だ。祭司長やパリサイ人たちは、自分たちは神の戒めを守り、神に従っ
ていると思い込んでいた。旧約聖書の学者であるほど、聖書に精通していた。

それが、神が遣わされた御子イエスを認めず、殺そうとした。実際十字架へと追
い込んで行った。自分を正しいとする時、何も見えなくなる。私たちもパリサイ
人と同様だ。神によらなければ、何一つできない盲目の者と知る事が、見えるよ
うになる事だ。
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日々の生活で、言い訳し、自分を正当化し、罪を認めない時、盲目状態に陥る。
自分の正しさを根拠に、人を責めて行く時、まさに何も見えない状態だ。悔い改め
て行く時、目が開かれ見える者にされる。真に正しい場所、御心の場所に立てる。