2026年06月19日(金) 「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分 からいのちを捨てるのです」ヨハネ10:18
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分 からいのちを捨てるのです」ヨハネ10:18
信仰人生で大きな苦しみ、厳しい試練、様々な試みに出会う。一つ 一つの試練は量って与えられた杯で、御父からのものだ。目の前の 状況でなく、背後の主を見ることが必要だ。その試練に反抗し、反 発することは、剣を振り上げ向かって行くことだ。ペテロが主が捕 えられた時、兵士に剣で向かった。 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲 まずにいられよう」と。今、目の前にある試練は主から来ている。 主イエスは、ゲッセマネの園で血の汗を流し祈られた。その祈りの 中で、十字架を父の御旨と厳粛に受け入れ、従われた。嫌々、渋々 仕方無しにではない。「だれも、わたしからいのちを取った者はい ません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」主は、 罪を負い、自ら命を捨てる事を選択された。自分からであった。 だから、主は命を取られるのでなく、自ら捨てられた。だから試練 に飲み込まれてしまうのでなく、試練の中でコントロールができた。 二つの選択がある。嫌々の態度で、試練にほんろうされ、不平不満 で一杯で、苦しいばかりだろうか。 試練を受け止め、くびきに頭を入れ、しっかり負うなら、くびきは 辛く苦しいものでなく、心地よく平安が来ると。「わたしのくびき を負って、わたしから学びなさい」と。試練を受け入れるなら、誰 もあなたを損なう事が出来ない。悪魔の働く隙と足場を無くしてし まう。受け止められるよう祈ろう。助けて下さる。 ------------- ふり返ると、主のご愛や深い慰めを経験したのは、いつも試練を通 してだった。試練はただただ辛いものではなく、主を通してくる事 を知っているのは感謝だ。信仰の目で見ていこう。