2009年03月23日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24



富んだ青年は、主に従いたいとは思っていたが、自分が愛し、慕う、肉の部分が捨てられず、主から去って行った。

信仰生活とは、どれほど聖書を知っているか、奉仕し、善行をしているか、又、献金しているかではない。肉の欲望や肉の思いが、主の御心と相容れない事を知り、人間的な思いから離れ、主の喜ばれる事、主に受け入れられる事、主の御心を求めて行く事だ。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」と言われるように、主の御心は、自分の思いと、大幅に異なっている。主の死の事を聞いたペテロが、そんな事が起こるはずがないと言った時に「下がれ。サタン」と言われた。

「わたしの邪魔をするものだ」と。ペテロの一見主を思う思いは、サタンから来ていて、十字架に敵対していた。

それゆえ「自分を捨て」ない限り、私達は反対方向に間違ってしまう。
なぜなら、人間的な目で見ると、どう見ても目の前の事が正しい、妥当としか見えない。

正しいと思っている自分が、実は肉の中にいるからだ。正しいとしか見えないので、どこまでも肉の思いで神を信じ、肉の手で神をつかもうとする。だから、神がわからない。

正しいと思っている自分に頼らなくなった時に、初めて神に出会う。
自分の肉に一切頼らなくなった時に、神を見い出す。盲人や長血の女や姦淫の女のように、何の手段も無い時にこそ、主に出会う。
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理解しよう、悟ろうと肉に頼っている自分に気付けるように。自分の内には、何もない事をを認めながら、主の御心を尋ねて行こう。肉の思い、捨てるものを主が教えて下さる。