2009年05月23日(土) 「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき」ルカ15:20
「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき」ルカ15:20
弟息子は、莫大な父の遺産を要求し、湯水のごとく放蕩し、すべてを無駄にした。 しかし彼が無駄にしたのは、自分自身だった。 自分を損ない、傷つけボロボロにしてしまった。自分のした事であり、すべて自 分の責任だ。彼はどん底まで行き突き、絶望した。どんなに自分が無力で、惨め で貧しく、盲目で裸であるかを思い知った。 実は自分自身の姿は皆そうなのだが、自分をだましだまし生きている。自分の惨 めさを決して見たくないし、認めたくないので、仕事、愛する人、富、名誉、地 位、様々なものに走り、心を何とか埋めようとごまかしている。 自分ではどうにもならない、絶体絶命の壁にぶち当たった時に、初めて自分の本 当の姿を知る。 弟の帰還で兄の本性もあらわになった。初めからあったものが現われ出たに過ぎ ない。 ある人が「自分の本音に気づいた。自分が愛していたのは他人ではなく、他人の 中に実は自分を愛していた」と言った。 惨めで哀れで、裸である事実を人は知らないまま生きている。目が開かれてそれ に気づく事からすべては始まる。 痛いが、それこそが実は大きな祝福だ。自らの惨めさが、いかばかりかを知っ た時に、かわいそうに思い、走り寄って抱いて下さっている神を、そのご愛を真 に知る。惨めを知る事が大きな祝福への一歩だ。 ・・・・・・・・・・・・・・ 自分に全く愛が無いと知る時、ギブアップする時、愛が無いまま、一方的に愛し て下さっている主に出会う。心が喜びで満たされる。無い所にこそ、満たしを得 る恵みの世界だ。惨め、哀れ、裸を知れば知るほど、主の愛、あわれみにおおわ れて行く。