2009年09月22日(火)

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩編105:19



私たちの願いやビジョンが御心であっても、すぐにスムーズに願い通りには成就しないで、試練を通りながら、試されながら、実現して行くということであり、今までも経験した事だろう。

御心でないのでなく、御心であって、尚且つ成就するまでに、悩みや苦しみを通ると御言葉は言っている。御心を行なうなら、物事がスムーズに、順風満帆に行くと思っていないだろうか。なぜかわからないがそう思っている。

それで、御心に進み、悩みや苦しみに出くわすと、これは御心では無かったのか、御心を誤ったのか、怪しみ、悩む。しかし、御心を間違ったのではなく、成就するまでに、紆余曲折があるということだ。主の約束は、「試し」となって私たち
に臨む。それは私たちの心に潜んでいて、普段は現れることもなく、気づかない「不信仰」を見せられる。

霊に憑かれた息子の父親が、主のもとに来た時に、「できるものなら、と言うのか、信じる者にはどんなことでもできる」と言われ「不信仰な私をお助け下さい」と叫んだ。不信仰な自らを助けて下さいと、主に頼った時に、息子はいやされた。

ヨセフは約束与えられながら、幾多の試練を通り、患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、造り変えられて行った。主は私たちを訓練され、信仰を成長させ、御言葉を成就される。その時、神の栄光が素晴らしく現れる。
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救われ信仰を持ったなら、いつの日にか奇跡のように信仰が成長するのではない。紆余曲折を通らされ、試されふるわれながら訓練される。けれど試練の時も主は同伴されている。感謝だ。