2009年10月23日(金)

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった・・」ローマ5:8


もし、あなたが夜更かしして、うっかり朝寝坊し、毎日しているデボーションができなかった場合、どうだろう。落ち込むだろうか。何かとがめて、意気消沈し「ああ、今日は祝福されない1日になる」と思うだろうか。

これは大きな間違いだ。もし、デボーションできなかったとしても、神の、あなたへの愛や恵み、慈しみは決して変わらない。「決して」だ。デボーションできなくても、愛していて下さる。デボーションしたから、愛して下さるのではない。

行ないで受け入れられるのではない。神の愛を得たいから、愛を貰うために、デボーションをするのではない。それなら律法だ。主キリストのゆえに、無条件に愛し、あなたそのものを受け入れて下さっている。
裁かれていない、受け入れられているからこそ、「ねばならない」でなく、デボーション「したい」と思う。

日常生活でどうだろう。親切に、相手に対応しようと思うが、ついイライラして、とげとげしくなる。相手に当たってしまい、悪い態度を取ってしまう。信仰者にふさわしく歩みたいが、自我が出る。肉に歩んでしまう。

すると自己嫌悪に陥り、又、失敗したと自分を責める。同じ事を繰り返し、成長が無いと落ち込む。しかし、落ち込む必要はない。その場ですぐに悔い改めるなら、赦して下さる。霊的だから、立派だからでなく、どうしようもない「罪人」のために死なれたのだ。
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取るに足りない罪人のために、神様は十字架という具体的な愛を示された。この主の愛がわかったから、私達は純粋に主のために何かしたいとの応答ができる。失敗から学びまた立ち上がろう。