2010年06月22日(火)

「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9

荒野で羊を飼っていたモーセを、主は召し出された。柴の中から「モーセ、モー
セ」と呼ばれ「エジプトに帰り、同族イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と。

その時、モーセはどう答えただろう。「私はいったい何者なので、そのような事
をしなければならないのか。私は言葉の人ではない。他の人を遣わして欲しい」
と。
彼は40年前の、意気盛んな青年であった時に、エジプトの栄華と権力、地位、
人脈、影響力、ありとあらゆる力を持っていた。その彼は、自分の力で同族を救
い出そうとした。そして失敗した。
自信満々であり、自分が強かった。しかし、それは肉の力であった。それゆえ決
して神の力が現されることは無かった。

荒野に逃亡し、40年の羊飼いの生活を経て、かつての栄華も栄光もすべてが過
去のものとなった。何の力も無い、一介のただの羊飼いに、何ができよう。40
年の荒野での歳月を通して、モーセは砕きに砕かれ、へりくだったモーセと造り
変えられた。

以前のように自分が民を救い出せるなど、思い上がった考えはもう無かった。し
かし、神はそんなモーセを選ばれた。「モーセのようにへりくだっている人は、
地上に一人もいない」と主が言われるほどに、思い上がりも、自分の力も、何も
かも、砕かれ尽くしたモーセに変えられた。そのモーセこそがふさわしかった。

神の力は、いつどこで現われたのか。それは、モーセの「弱さの内に」、「完全
に」現われた。今、弱さを覚えているなら、強くなる必要はない。無力を認めて
神の御前にへりくだる時、その弱さの内にこそ、神の力が完全に現れる。

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自分はいっぱしと思い、自分こそはと思う、そこを砕かれる。神が愛していて下
さるので、間に合う器に造り変えて下さるためだ。整えて用いるために。苦しい
状況でなく、その神に焦点を合わせて行く時、深い平安が心に来る。