2010年07月23日(金)

「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」I サムエル4:3


イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱さえあれば、大丈夫だと思った。

しかし、そうではなかった。神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされるに任せられた。彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分たちを救って下さるはずだと思った。

自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高をくくっていた。しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされる事は決してない。罪と神は何の関係も無い。何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子は
死んだ。

散々な敗北だ。都合が悪い事はふたをし、隠されるのではない。人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかくひた隠しに隠す。しかし、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。同時に、あわれみ深く、赦しに富んだ方だ。
罪をあいまいにされる事はない。

しかし、御前にへりくだり、悔い改めるなら、豊かに赦して下さる。神のあわれみは尽きない。民のすべき事は、敗北の原因を祈り求め、不信仰を悔い改め、主ご自身に頼る事であった。
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形ではなく、心を探られる。また神様に何かをしてもらえるような完璧な行いも私達には出来ない。出来ないことを認め、ただすがって行く信仰が今日も探られて行く。