2012年02月21日(火)


「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じると いうことを、あなたがたは知っているからです」ヤコブ1:2 

「忍耐」は「我慢」のように思い、混同してしまうが、忍耐と我慢は異なる。我慢は、とにかく苦しみが去るように〃と願い、ただひたすら去る事を待つだけだ。消極的であり、そこに希望が持てない。忍耐とは、積極的な意味があり、神が必ず良くして下さると、信じることだ。この事が必ず益となり、祝福となると信じて、苦しみの中で主を待ち望むことであり、そこには希望がある。

「信仰が試されると、忍耐が生じる」とあり、この忍耐は、信仰の試練から生まれる。もし、あなたの親友が、待ち合わせの時間に遅れたなら、どうだろう。嘘をつかれた、裏切られたと思うだろうか。決して思わない。何か急な事情ができたと思うのではないか。これは親友との間に信頼関係があるからだ。

主に対してはどうだろう。今、苦しいが、主は必ず良くして下さると、待ち望み続けること、ここに「忍耐が」生まれ、それが、私たちの信仰を成長させてくれる。この苦しみを、主は良くして下さると信じる、すると、必ずそうして下さる。この繰り返しの中で、主への信頼が深められて行く。

信仰が試される事によって、主との間が深められて行くとは、何と恵みだろう。今、試みにあるなら、主との信頼関係が深められるためだ。主にありのまま、正直に気持ちをぶつけたらよい。主に祈り、主からの御声を聞こう。「忍耐が生じることを、あなたは知っている」から。
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主が必ず良くしてくれるので、主の解決を期待して待とうとの神への信頼は、試練の中にあっても深い心の平安、安堵で心も守られる。さまざまな試練を通る度に右往左往する恐れから、信仰による忍耐、品性へと成長して行きたい。