2012年08月23日(木)

「イエスはご自分の肉体の垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」ヘブル10:20

私たちはどうだろう。何かを行なおうと決心するが、何度挫折した事だろう。聖書を読んだ方が良い事はわかるが、日々読もうとすると読めない。祈りが大切だとわかるが、幾度も失敗する。朝、バタバタしてつい御言葉と祈りをパスしてしまう。祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。御言葉に従って生きる事の大切さを誰しも知っている。わかっているが、出来ない。

しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主が来て下さった事を覚えよう。もし自分の力で、日々完璧にデボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。あなたも「ねばならない」で心が縛られているだろうか。主を信じて、休ませて頂くのでなく、返ってしんどくて苦しく、重荷であえいでいるだろうか。

ありのまま来なさいと言われているに関わらず、良い行ないで御前に出ようとするだろうか。祈りをし聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。罪を犯すと、途端出られなくなる。こういう状態だろうか。これなら、主によってでなく、自分によって御前に出ている。

そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、聖所に入る事ができる。今日も、今も、自分のわざによってでなく、主イエスゆえに、今のままで御前に受け入れられている。
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神様の恵みの十字架に、自分の何かを付け足すことはできない。昨日も今日も、いつでもありのままの自分で主に近づける道を与えて下さった神様に、ただ感謝だ。