2012年11月22日(木)

「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:10」

     
エデンの園で、アダムとエバは罪を犯した。その後、園で主の御声を聞いた時に、主の御声を避け、身を隠した。罪の結果であった。何のへだも無い自由な喜びと楽しみの交わりにあった主を避け、隠れるようになる。アダムとエバも互いに、身をおおい、隠し合うようになった。そんな彼らに、悔い改めの機会を与えるために、主は「どこにいるのか」「食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と御声をかけられた。

「私がが食べました。ごめんなさい」と言えたなら、どんなに良かったろう。アダムはエバのせいにし、更にはエバを与えた神のせいにした。エバも蛇のせいにし、そして蛇を造ったのは誰かという事になる。自らの自我の姿が重なる。人が悪い、環境が悪い、自分は被害者であり、悪くない。主は愛ゆえに、悔い改めに導こうとされる。主が示される、自らの罪を認めないなら、主を嘘つきにしてしまう。

「もし罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とする。神のみことばは私たちのうちにない」最も恐ろしい事になってしまう。「光の中を歩んでいるなら」=正直に罪を認めるなら「互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」。悔い改めるなら、どんな罪も赦される。悪いのは周囲で、自分は被害者にしていないか。罪を認める時、赦しを受け、平安に満ち、喜びと主の愛への感謝に溢れる。
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口には出さなくても自分を正当化する言い訳なら幾らでも思いつく。神の前にも言い訳をし、罪を犯していない振りをするなら、いつか自分自身が欺かれ、御声を聞いても、御言葉を読んでも、すべて人ごとになってしまう。