2013年02月20日(水)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27


バプテスマのヨハネの弟子たちが、人々が主イエスの方へと行くのを見て、やっかんだ。皆の関心と人気が、自分たちの師から離れて行くことを寂しく、又妬ましく思った。しかし、ヨハネはへりくだっていた。神の主権と支配を認め、それを受け入れて満足していたので、全く動じる事が無かった。それで、「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と言えた。

自分に与えられた分をわきまえていた。私たちにも一人一人に、神から与えられた分がある。皆、異なる。それぞれ遣わされた場で、それぞれの働きがある。与えられている賜物も異なる。ヨハネの弟子たちが、自分の師と主を比較したように、私たちも自分と隣の人を比較してしまう。比較するなら必ず劣等感、もしくは優越感に陥る。人との差異で自分を量るからだ。人が基準となる。

比較なので、自分が相手より劣るなら劣等感、相手より上だと思うなら優越感だ。しかし、相手が変わるだけでアップダウンし、自分は全く同じ自分であり、何一つ変わらない。虚しい、愚かな、何の実も無い生き方になってしまう。神を知らなければ、人との比較しか自分を量るすべがない。

しかし、主に在るなら解き放たれる。主が与えて下さるもので、満ち足りる事ができる。主との交わりにより平安にされるからだ。「比較しています」と祈ろう、導いて下さる。
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人も自分の思いもいっさい無縁の、天から与えられるものだけに関心を持って歩んで行けるだろうか。神が今日すべきこととして示して下さることを忠実に成し遂げたい。