2013年04月22日(月)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩編55:22

       

ある人が、時間をかけて祈りに祈った上で、導きを確信して、神学校に入学した。主の導きであるので、経済的な必要は、必ず備えて下さると信じての入学だった。当座は貯えから生活していたが、突然の不意の出費や、様々な必要が生じて、途中で、貯えが尽きてしまった。進級時に、授業料が払えなくなった。授業料が払えなければ退学だ。必要が与えられるよう必死に祈りに祈った。御心を確信して来たはず、主は必要は必ず与えて下さるはず、祈りに祈ったが与えられなかった。奨学金の道も開かれなかった。

「導きを信じて、職も捨てて、郷里から出て来たのに、なぜ?」と、尚も祈ったが、与えられなかった。祈り抜いた結果なので、これが神の御心と受け止め、学校を辞めて帰ろうと思った。なすすべなく、最後に自分自身も将来も明け渡して、今後の事も主に委ねた。すると、不思議な事に、それまでの不安や、思い煩い、様々な思いでいっぱいだったが、その時、心がすうっーと、なぎになり、平安で満ちた。そして、そのすぐ後だった。自分宛に無名の献金が届いている知らせを受けた。

授業料と生活費に必要な額だった。その事を通して教えられた。祈る事は祈るのだが、自分の力で、御心を行なおうとしていたことを。委ねる意味も頭でしか、わかってはいなかった。窮地の取り扱いを通して、初めて委ねることの実際を知った。今、あなたも委ねる事を教えられているだろうか。
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委ねようと祈った先から心配事がわいて来て、また思い巡らす。少しも委ねきれていことがある。本当の心配事は何なのか、自分でもわからない不安や焦りの正体も祈りの中で示される。一つ一つ預けていこう。