2013年05月23日(木)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩篇139:1


     
ある人が中学の時に、いじめに会っていた。しかし、絶対に誰にも知られたくなかったので、誰にも言わなかった。親にも知られたくないので、一言も言わなかった。プライドのゆえだった。自分がいじめられている事が惨めで、認められない。それを知られるなど、更に惨めで耐えられない。そのため、傷ついていない振りをした。実際は、ひどく傷ついているに関わらず、そうでない振りをする。

しかし、主の御前では、そうであってはならない。主は、そのままのあなたを受け入れて下さっている。主の前では、振りも、繕う事も、隠す事も必要ない。すでに惨めで、あわれな自分自身を何もかもご存じで、愛して下さっている。プライドが妨げている事を認め、実際は深く傷ついている事、どうしようもなく惨めである事を認めよう。その時、初めて主の取り扱いを受け、心が癒されて行く。

平安にされる。神は常に真実であられる。しかし、こちらが正直でなければ、交わりが成り立たない。本当の私を受け入れて下さっているので、振りをした、繕った私は私ではないからだ。神との交わりが何かベールがかかり、実感が無いのは、自分が正直ではないからではないか。ダビデは、死と隣り合わせの苦悩の中で、恐怖、思い煩い、不安、嘆き、惨めさも何もかもを神にぶつけた。そうでない振りをせず、率直に、正直に神にぶつけ、いつも御霊の喜びと平安に変えられた。プライドが自分を妨げていないだろうか。
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ダビデは「憎しみの限りを尽して彼らを憎む」と心のありのままを訴えて驚くほどだ。「許せますように」と建て前で祈らず、その前の正直な思いを飾らず主にうちあけ「傷のついた道があるか」を尋ねていこう。