2013年10月22日(火)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある人が、仕事の事で、難題を抱え、どうしてよいかわからず、苦境にいた。八方ふさがりで、途方に暮れて、神に祈っていた。尚も、祈りつつ試行錯誤していた時に、部下が「こういうプランはどうですか」とアイデアを提案して来た。あっと、良い案だと思ったが、決断できず、ぐずぐずして見送った。何だか心重く帰宅し、主の御前に祈りの時を持った。御前に静まり、心を注ぎ出し、自分の思いも状況も何やかやと、主に告げながら、祈っていた。

その中で「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして」「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」御言葉が臨んだ。部下からの提案は、きっとずっと祈っていた祈りの答えであったのに、部下からという事で、素直に受け入れる事ができなかった。それは、自分のプライドのためであった事に気づいた。

悔い改めて、そして部下の提案を取り入れたところ、神は祝福して下さり、難題に素晴らしい解決を見た。しばしば、主は高ぶった私たちにへりくだりを求められる。水は低い方へと流れ、恵みは低い、へりくだった者へと溢れる。今、どうにもできないプライドがあるなら、十字架の主を仰ごう。むち打たれ、身体が砕かれ裂かれ、血まみれになり、身も心もぼろぼろになり、何もかもを捨てて下さった方を見続けよう。
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主のへりくだりの愛を見ることによってどうしても一番になりたい自分、謙遜になれない自分の罪を知る。へりくだりの愛は決して弱さではない。人はどうであれ、自分自身は主のへりくだりの愛に習って生きて行きたい。