2013年11月22日(金)

「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました」詩篇31:21


私たちの窮状は、神のチャンスだ。窮状の中でこそ、生きて働かれる主に出会う。順調に行っている時は、私たちはどうしても自分の能力と知恵で歩んでしまう。神が必要無く、自分の力で歩めてしまう。「あなたがたが神のようになり・・」がエデンの園でのサタンの誘惑であり、肉は自分が神となり、自分の思い通りに自分の力で歩みたいし、どこまでも歩もうとする。しかし、自分の力で、何もどうにもならない窮地に陥ると、私たちは神を求め、神にすがる。自分でどうにも出来ないからだ。

行き詰まり、頼れるものが何もない状況こそが、実は最大の恵みだ。「私をあわれんで下さい。私には苦しみがある」「悲しみで尽き果て、骨々も衰え」「死人のように壊れた器のようになった」と苦難の中にいたダビデが「しかし、主よ。あなたに信頼しています」「ほむべきかな、主」と主への賛美に変わっている。どん底でダビデは主だけを頼りに、主に拠りすがった。

苦しみは私たちを主に近づけてくれる。実は大きな恵みだ。何の苦しみも無いと、神に頼る事なく神から離れて生活していて、それすら気づかない。「私をあわれんで下さい」、あわれみとは、私たちの惨状を受け止めて下さる神の愛だ。自分の好き勝手に歩み、その結果、自分の罪や過失でぼろぼろになっている、その者をかわいそうに思って下さる愛だ。どんな状態であれ、主のもとへ行ける。まず主のもとへ行こう。
-------------
多くの助けや慰め、癒されるものが側にあることも感謝だが、主は遠くぼやけている。「主よあわれんで下さい」と頼るしかない状態に置かれることは、辛い中にも平安がある。深い所で主と繋がり強い信仰へと導かれているからだ。