2014年02月20日(木)

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」ヨハネ4:13 



サマリヤの女性は、心の奧に渇きがあり、満たされない思いで、虚しさの中にいた。その心の内を知る主は、わざわざ彼女個人に会い、必要を満たし、救うために、サマリヤを通られた。井戸ばたに、彼女は水を汲みに来ていた。が、極力、人目を避けるため、カンカン照りの暑い、誰も来ない時間だった。

その時、主は彼女に「水を下さい」と求められた。彼女は、サマリヤの女に、ユダヤ人の男性が話しかけることに驚いた。当時、そういう習慣は無かった。そして、主は、ご自身こそが、生ける水を与え、渇くことのない、真の心の満たしを与えることができると言われた。

箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるが、人間は、愛し、愛されることを求める。しかし、人の愛は条件付きであり、残念ながら人の心は変わってしまう。永遠の愛を誓って結婚した男女が、残念な事になってしまう。この女性は、男性の愛を求めて、さまよっていた。男性により、自分は満たされ幸せになれると思った。しかし、そこに心の満たしは無かった。

この世の水は飲んでも、また渇く。私たちも、もし心に喜びや満足が無ければ、主以外のもので、心を満たそうとしていないだろうか。人からの賞賛、富、名誉、地位、働き、自己実現・・。気づきから方向変換が始まる。
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信仰があっても喜びや満足がある時ばかりではない。その時こそ感謝し、その渇きをご存知で近づいて下さる主としみじみ交わりろう。新たな力が湧いて来る。渇くことはない。