2014年06月22日(日)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10


モーセはエジプトの王子である40才の時に、同胞の救出を志すが失
敗し、荒野に逃亡した。そこで羊飼いとして、40年の歳月が流れ、
かつての栄光も栄華も地位も名誉もすべて失い、徹底的に砕かれ低
くされた。しかし、そこからが神の始まりであった。苦難、挫折、
痛み・・は、実は大きな恵みだ。

私たちは、惨めになる事を極力恐れ、とにかく苦しみを避けたい。
だが、主が、主の器を形造られるために、どうしてもその所を通さ
れる。自分の力をギブアップした、そこでこそ、真に主に出会う。
無力になった80才のモーセを、主はふさわしいと召し出された。人
の思いと神の思いは違う。主は荒野でモーセを訓練された。

パロのもとに遣わすので、民をエジプトから連れ出せと。以前の
モーセなら、喜び勇み、自信満々で、この使命を引き受けた事だろ
う。しかし、砕かれたモーセは戸惑い、尻込みした。「私はいった
い何者なのでしょう」そのような、とんでも無い任務にあずかるな
どと。もうモーセには、野心も力も、自信も、持てるものも何も無
かった。

だが、主は、まさにそのモーセを用いられた。「わたしはあなたと
ともにいる」と。そして、「わたしがあなたを遣わすのだ」と。弱
さ、無力を感じているだろうか。しかし、主は、そんな私たちをこ
そ用いられる。自らの力ではなく、私たちが事をなすのではなく、
主が成し遂げられる。それは、主だけが崇められるように。

・・・・・・・・・・・・
この世の価値観では、強さ、能力があることが良いこと、弱さ、能
力が無いことは良くない事になっている。しかし「神の力は弱さの
内に完全に現われる」、弱さが神の力が現される土壌だ。弱さと無
力を認める時、神がそこに働かれ、御力を現される。