2014年09月22日(月)

「そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい』と言われた」マルコ11:33



祭司長、律法学者、長老たちが、何の権威によっているのかと、主
に詰め寄ると、主が逆に問いかけられた。「ヨハネのバプテスマは
天からか、人からか」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、
人からと言えば、群衆は預言者だと思っているので、人からどう思
われるかが恐い。

どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。結局、真
理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われ
るか、自分の立場を守ることが判断基準であった。時々、祈ってい
るのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。
そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探って
みよう。

態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままに
しておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、
こっちにも良く思われたい。どちらも欲しい。その底は、実は御心
がわかっては困る。御心がわかりたくないという事になる。しかし、
時に、はっきり迫られる。

「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかり
ません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。「わ
かりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端です」
「犠牲を払いたくないです」「迷っています」と、正直にありのま
まの姿を認めて、「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。
そうするなら、御心へと導いて下さる。
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本当のところはどうなのか、そこを認めて主に訴えていこう。自分
の本音を認めないなら真実に主と関わることもできない。認めると
ころから祈りがかわり、主の導きも明確に見えてくる。