2014年11月22日(土)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とは なりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つか らです」Tヨハネ5:3

 

信仰者は、御言葉に従おうと、懸命に努力する。主と人を愛そうと
し、寛容で、善意に溢れ、誠実であろうとする。喜び、平安に満た
されて人生を歩みたい。主と人に仕え、良い証しをしようと、良い
行ないに励み、職場では仕事も人一倍頑張る。一生懸命になる。

ところがどうだろう。自分が頑張っていると、そうしていない人に
イラ立って来る。自分の力でしていると、必ず裁く思いが出て来る。
自分はこんなに辛くしんどい目をしているのに、何もしていないと
腹を立てる。マルタ状態だ。

マリヤとマルタは共に、主を心から喜び歓迎した。マリヤは主の足
もとに座して、一言も聞きもらすまいと、全身全霊で主の御言葉に
聞き入った。マルタは様々なもてなしの準備をした。食事の時刻も
迫り、あれもこれもとイライラして来る。マリヤを見ると何もして
いない。腹が立って、マリヤを責め、それを許している主をも責め
る勢いだ。

主のために労しているはずなのに、イライラし、人を裁き、責め、
思い煩いで一杯になる。何をしているのかわからない。御霊の実を
結ぶべく歩んでいるのに、逆に肉の実を結んでしまう。どうしてだ
ろう。御霊によらず、自分の思いと自分の力で行なっているからだ。

御霊に導かれるためには、まず、自分では従う事が出来ない事を認
める事だ。そして自分の身を明け渡して行く時に、御霊に導かれた
歩みを経験して行く。そこには喜びと平安と自由がある。

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「自分にはできません」「できません」とそのまま祈って行く時、
更に、心の底を見ると「したくない」ことがわかる。「したくあり
ません」「〃」「でも、助けて下さい」と祈り続けていると、心が
変えられて行く事を経験する。そこに御霊が働かれる。みわざを見
る。