2015年02月20日(金)

「主はモーセに告げて仰せられた『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ』民数記13:1




指導者モーセによって、イスラエルの民は苦難のエジプトを出た。
そして約束の地カナンに向かった。その時に、12人の斥候がカナン
の偵察に出た。彼らは戻り、10人は占領は「無理だ」と言い、2人
は「大丈夫だ、できる」と言った。10人は、現地の民は脊が高く、
自分達はいなごのようであり、自分達は敗北する。上れないと言っ
た。

全会衆は、その10人の言う事が妥当に見え、そちら側についた。
皆は大声で泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した。恐れて不
信仰に陥った。12人の斥候は全く同じものを見た。だが、なぜカレ
ブとヨシュアは「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必
ずできる」と言えたのか。その根拠は自分達の思いによる判断でな
く、神が、その地を与えると言われたからだ。

結果的に、信じたカレブとヨシュアは約束の地に入り、民は皆、荒
野で滅ぼされてしまった。何が信仰であり、何が不信仰なのか。カ
レブとヨシュアは見える所でなく、現状でなく、神と神の語られた
御言葉を見た。10人の斥候は、御言葉でなく、目に見える所、現状
と困難を見た。ここが違った。

神を通して状況を見るか、神を見ずに状況だけを見るか、の違いだ。
状況だけを見ることが不信仰だ。今、御言葉を見ているだろうか、
状況を見ているだろうか、どちらだろう。
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現状しか見ずネガティブな発想は、自分だけでなく人にも害を与え
る。「必ずそれができるから」と御言葉に立った言葉が口から出て
いだろうか。学ばされる。