2015年12月23日(水) 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23
「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23
信仰人生の中で、様々な問題が起こる。病気になり、経済的苦境に もなり、対人関係の悩みも生じる。突如の離別、リストラもある。 不作もあるし受験は不合格もある。この世の宗教は、家内安全、無 病息災、商売繁盛、五穀豊穣だ。しかし私たちは順境のみの人生で はない。病気が治らない事もあり、貧しい生活が続く事もあり、不 合格に泣く事もある。 そして苦しい状況が、即、解決ではない事も経験する。そんな時、 何が「救い」なのだろう。「男の子を産み、その名はインマヌエル と呼ばれる」(神は、私たちとともにおられる)。この「インマヌ エル」が私たちにとっての救いだ。世の終わりまで絶えず主が共に おられる。経済的窮乏の時も、病の時も、様々な苦しみや悩みの中 にも、どんな時にも主が共におられる。 「たとい、死の陰を歩くことがあっても・・恐れません」、死に直 面しする時にも、主が共におられる。ある人が、病の癒しを祈りに 祈っていた。なかなか回復のきざしもなく、しかし祈り続けていた。 祈りが聞かれていないのだろうか。その苦しい胸の内もすべて告げ ながら、尚も祈っていた。 すると主との親しい交わりの中で、状況は変わらないのだが、不思 議に心が平安にされて行った。そして御心ならすぐにでも直るし、 もしそうでなくても、一番肝心な事は「主が共におられる」、この 事だと気づかされた。独りでなく、主が味方であり、何と幸いなこ とだろう。 ------------- 主が共にいてくださるこの平安は、状況には関係が無い。むしろ厳 しい状況の中での主の平安は周囲をも輝かす。インマヌエル、主と 共に生きる平和を御神は与えてくださった。