2016年06月22日(水)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32   

  

小さな子が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、飴を握りし
め、手が出ないと泣き叫んでいる。飴を放すと、手が出るよと言う
が、絶対に嫌だと泣くばかり。滑稽な光景だが、私たちの霊的生活
に似ている。心がザラつき、悶々と辛く苦しいだろうか。その時は、
何かを握りしめている。

憎しみや妬みか、裁く心か、思い通りにしたい肉の思いか。憎しみ
や妬みは、相手でなく、自分が苦しい。平安が無く、喜びが無い。
飴を放すなら、ボックスから手が出て、自由になる。憎しみや妬み
を手放す時、心は解放され、喜びと平安が戻る。しかし強烈な自我
は、放したくない。苦しいのに、憎んでいたいし、妬んでいたい。
罪の性質だ。「出来ません」「したく無い者です」と自分の姿を認
める事から始まる。

ある人が子供の難病を、どうしても受け入れられないでいた。「な
ぜ?」「自分の子が?」と涙は溢れ、グルグル思いは回り、苦しく、
神に対して反抗している自分がいた。同年齢の子供を見ると涙が出
た。悶々の自分の心は辛くてたまらず、とうとう限界だった。行き
詰まり、瀬戸際で、ギブアップした。

自分自身も子供も将来も、何もかもを明け渡した。その時、状況は
何も変わらないのに、心に初めて安堵と平安が臨んだ。何にも代え
られない平安だった。心が自由にされた。委ねられないで握ってい
る状態なら、その事を主に告げて、ありのままの心を正直に祈ろう。
主は必ず導いて下さる。
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喜べない状況に、不平も不満も祈りの中で告げていると、ふと見え
ていないものが見えて来る。その時々でそれは違うが、出口を塞い
でいる自分をそのまま受け止めてくださっている主を深く感じる。