2016年08月23日(火)

「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります』」ヨハネ11:23



信仰とは何だろう。信じる事が大事なのだと、何でも良いから、信
じ込めば良いのではない。それなら「いわしの頭も信心から」にな
る。聖書のいう信仰は、主の御言葉に土台があり、その御言葉を信
じることだ。ラザロの箇所で、主が駆けつけた時に、マルタに「あ
なたの兄弟はよみがえります」と明言された。

しかし、マルタは教理的に理解し「終わりの日に、よみがえること
を知っています」と答えた。すると主は「わたしは、よみがえりで
す。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる・・」「こ
のことを信じるか」と言われた。主ご自身がよみがえりでいのちな
ら、ラザロのよみがえりは可能ではないかと。

しかし、マルタもマリヤも、主の言葉とはいえ、ラザロは死んで、
更に4日にもなる。死んだ上に腐敗して来る。それがよみがえるな
どと、信じる事が難しい。病気ならば、主が治して下さると信じら
れる。しかし死んでしまっては・・。主が、よみがえりでいのちだ
としても・・。墓へ行き「その石をとりのけなさい」と言われた時
も、「もう臭くなっています」と。

しかし「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見ると、言ったでは
ないか」と。私たちも、信仰人生で、非常に難しい状況に陥る事が
ある。もう不可能に見える事がある。しかし普通の状況では、現わ
し得ない神の栄光を、神が現わして下さる時だ。奇跡のわざをして
下さる。その時に語られる、神の言葉を信じて行こう。
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病は癒されても、死んでしまった者が生き返るとは思えなかった。
私たちの理解には限界があるが信じるなら栄光を見るとの御約束は
真実だ。固定観念の重い石を取りのけよう。