2017年10月23日(月)

「取税人は遠く離れて立ち・・自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」ルカ18:13



パリサイ人と取税人が祈るために宮に来たが、二人の祈りは対照的
なものだった。取税人は罪人の私をあわれんで下さいと祈り、パリ
サイ人は、他の人たちのようでない事を感謝しますと祈った。子供
たちの視覚教材で、ハート型に切った紙を使うが、取税人は真っ黒
なハートが真っ白にされて帰った。パリサイ人は真っ黒なハートが
真っ黒なまま帰った。

パリサイ人が来たのは、赦しを受けるためでなく、自分は正しいの
であり、賞賛を求めてであった。自己賞賛で一杯だった。御霊もパ
リサイ人に対しては、方法が無かった。なぜなら、「己の義」とい
うよろいをまとい、自身をしっかりガードしていたからだ。罪の悔
い改めなど、何の関係も無かった。どこまでも自分は正しいのだか
ら。

取税人は恥じ入り、顔も上げられず、遠くに立ち、罪の赦しを祈っ
た。ただただ自分の罪を赦されたく、悔いくずおれ、人の事など目
にも入らない。全く無い。自分と神との関係の中だけにいた。彼の
罪は赦され、真っ白にされ、神の義におおわれた。

「自分は正しい」に立つ時、闇の中だ。自分はどこまでも正しいの
だから、他の者は、間違っているのであり、そんな他の者たちのよ
うでない事を感謝する事になる。まさに闇の中だ。自分はどうなの
だろう。へりくだって、心を開いて、御霊の光のもとに身を置くな
ら、間違いを教えて下さる。闇に、御霊の光が射す時、闇は消える。
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自分を義人だとはとても思えない、だからパリサイ人よりましだと
思う自分の中に傲慢がしっかり顔をだす。御言葉は、人ごとで済ま
そうとする罪を照らしてくれる。いつも主のあわれみの中にいたい。