2018年02月20日(火)

「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」エレミヤ24:7 



モーセに導かれた出エジプトの際、主は次々に奇跡をされた。パロ
は、次々と災害に苦しめられると「出て行かせる」と言い、苦難が
去り、ほとぼりがさめると「行かせない」と翻す。又、苦難が臨む
と「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行かせる」と言う。

「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見
えるが、事がおさまると、又、頑なになり強情になる。これは苦難
を何とかして欲しいだけで、悔い改めではない。口先だけで、心で
は思ってはいない事の表われだ。王であり、何もかも自分の思い通
りに、思うがままにできたパロにとって、主の奇跡は、単に脅しに
過ぎなかった。

脅しが無くなれば、問題無い。だから元に戻り、何も変わらない。
主のみわざが、悔い改めを生み、主のご愛や真実を知ることには、
ならなかった。私たちはどうだろう。不都合な出来事は、ただ単に
災難であり、苦しみが去りさえすれば良いのだろうか。それならパ
ロと変わりがない。「わたしが主であることを、あなたがたが知る
ためである」。

信仰生活での様々な困難や問題は、「わたしが主であることを知る
ため」に送られている。それは、主ご自身が神である事を知る時で
あり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めに導かれるかも
知れない。目の前の問題は、「わたしが主であることを知る心を与
える」ためと受け取ろう。
------------
問題の解決のための信仰でなく、自分の強い思いから御心を求める
よう信仰を働かせる時に変えられていく。そして神が御わざをもっ
てご自身を知らせてくださる。その経験が祝福だ。