2018年03月23日(金)

「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」エレミヤ18:4


ある人が言った「私は、教会に出たり入ったりしてたのですが、主
を信じるのに、十年かかりました。砕かれなければ、神様はわから
ないですねえ。それからも砕かれて〃、主を知って来た感じです」。
自分が変わらないのは、自我が砕かれていないという事だ。

そのために、主は、対処出来ない事態に会わせたり、そりの合わな
い相手を、目の前に置かれたりする。嫌いな相手であり、嫌で嫌で
たまらない。ある時は、どうしても我慢ならず、職場を変える。す
ると、行った先にも同じような相手がいて、悩まされる。「相手を、
環境を、何とかして下さい」「相手を変えて下さい」と祈るのだが、
祈りが全く聞かれない。

しばらくして、祈りが聞かれていない事に気づく。そして段々と、
「これは、もしかして自分の問題?」と気づいて行く。祈りが変え
られて、「主よ、私を変えて下さい」となる。そうすると、その祈
りは聞かれて行く。祈りに答えられ、自分の内側が変えられて行く。
へりくだらされ、自我が砕かれて行く。

自分が変えられるので、同じ相手が目の前にいても、自分は平安に
される。自我が砕かれれば、砕かれるほど、平安が流れ込み、主の
事を知って行ける。主は陶器師であり、私たちを砕き、練り、造り
上げられる。目の前の痛い、辛い、苦しい事態は、砕かれ、自分自
身が変えられるために、主から送られて来たものだ。必ず平安へと
導かれる。
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もしかしたら、これは私の問題?と気づける事が感謝だ。砕きは痛
く避けたいが、避けずに主に委ねれば、どのように作り替えて下さ
るだろう。私を変えて下さいと祈っていこう。