2019年03月23日(土)

「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私 の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


み言葉の言う「弱さ」と、この世の言う「弱さ」は別ものだ。前者
は、自分の限界を知り、認めている事であり、後者は、強さが善で
あり、弱さは悪という価値観だ。能力があり、力のある事が善で、
無力は悪だ。この世は比較の世界なので、人は比較の中で生きてい
る。

人より仕事が、勉強が、運動ができない、迅速に処理できない、対
人関係がうまくできない、そんな弱さは悪だ。競争社会ゆえ、それ
なら負け組になる。そんな価値観の影響を受けると、できない、だ
めな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者
となる。劣等感のとりこだ。そんな自分を受け入れられず、認める
事などできない。だから人も認められない。

自分の弱さが悪であり、人に受け入れて貰えないと思う。そのため
人に弱さを隠す事になる。惨めなので決して知られたくない。競争
社会なので、弱さを見せると負けになる。尊敬を失い、自分の価値
が下がる、だから見せられない。自分で自分を縛り、窮屈にし、が
んじがらめにしている。

しかし、御霊の世界は全く違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完
全に現わされると。神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、そ
れらを弱さの中でのみ体験する。頭でなく身をもって知る。自分の
弱さを認める時、御霊の自由の中に入れられ、解放される。弱さは
恥でなく、誇るべきものだと言っている。そこに神の力が現われ、
そこで神を深く知って行くのだから。

・・・・・・・・・・・・
この世の価値観と正反対だ。この世では弱さは恥ずべきもの、否定
したいもの、みじめなもの、人に知られたくない隠しておきたいも
のだ。しかし主は弱さにこそ、主の力が完全に現れると。そこを否
定するのでなく、認めて、主に持って行こう。何という恵みだろう。