2020年04月22日(水) 「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
私たちの古い性質は、自分の誤りを認めたくないものだ。間違って いるとわかっていても、認めたくない。肉のプライドだ。不和の相 手がいると、相手が謝るなら、こちらも謝ってもよい、相手が変わ れば、こちらも態度を変える気持ちはあるのにと。自分から「ごめ んなさい」とは言いたくない。出来るなら、謝らずにうまくうやむ やに済ませたい。 又は、親切な行ないで、差し引きゼロにし、自分の良心のとがめも なだめたい。そして礼拝や奉仕が逃げ道になり、それで埋め合わせ をしようとする。だが、主はそれは喜ばれない。主に罪を犯してい るなら、罪を告白し、人への罪なら相手に謝まる必要がある。悔い 砕かれた心を喜ばれる。先延ばしにしている和解や謝罪があるだろ うか。 人を憎んだまま、主への献げ物は受け入れられない。礼拝への途上 でも、供え物は置いたままにしてでも、仲直りの方が大切だと言わ れている。先にそれをしてから礼拝を献げよと。謝罪はプライドゆ え逃げたい。自分は主からの赦しを受けながら、赦そうとしない相 手がいないだろうか。人との正しい関係は大切だ。そして「誰かに 恨まれている」なら、自分から仲直りのために出て行くようにと。 「恨まれている」のであって、自分が「恨んでいる」のではない。 しかし、恨まれている自分の方から赦しを請うようにと。そうする 時、御霊は助けて下さる。世の喜びではない、御霊の喜びと平安を 経験する。自分の力では出来ないので、まずそう出来るよう祈ろう。 ----------- 恨まれている事を思いださせてくださったのも主ではないか。主の 恵みの中で自分の状態を知らされた。主の導きに委ねて従えるよう に祈ろう。