2022年04月22日(金)

「すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょ う』と言った」使徒8:31



ある人が、人生の大変な苦境にいた。経済的にも立ち行かず、死を
も考えるほどの瀬戸際だった。そんな時、買い物に入った店で、レ
ジをしていた時に、背後にかかっていた言葉が目に入った。店主が
クリスチャンであり、壁に御言葉の色紙を飾っていたのだった。

「神は愛なり」とあった。心に焼き付いて離れなかった。帰宅後
も、
その言葉が頭から離れず、グルグル回った。「愛?」「神?」「愛
って何?」「神とは?」「どういう事なのか?」「神が愛なら、な
ぜ今、自分はこんな苦しい瀕死の状態なのか」「どこが愛なのか」

「おかしいではないか」怒りがこみ上げた。魂が捕らえられたよう
に、翌日その人は、店主に怒鳴るように聞きに行った。すると優し
く親切に対応してくれた。奥の座敷に上げてくれて、聖書を開い
て、
その意味を丁寧に話してくれた。そして身の上話を真剣に聞いてく
れた。

店主の愛情を通して教会に導かれ、主を信じることができた。試練
には脱出の道が備えられていて、生活のめどが立ち、苦境からも救
われた。別の人も引っ越し先の見知らぬ地で、不安と孤独の中、隣
家のクリスチャン夫婦が親切に、ゴミの出し方、病院や店を教え、
お茶に招き、神や聖書の事を話してくれた。夫妻の愛を通して、主
を知る事となった。

救われた私たちは、今度は、誰かの救いのために用いられるなら、
どんなに幸いだろう。言葉を通し、生活を通し、様々な方法で、主
はあなたを用いて、周囲の人を救いに導かれる。主に自分自身を渡
すなら、主は自由に豊かに用いて下さる。
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自分などまだまだと後ろに控えて、与えられることばかりを求めて
しまう。誰かに教えられ、祈られてここまで来た。何より主に愛さ
れて来た。今度は誰かの救いに用いてもらおう。