2023年01月23日(月)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近 づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15


二人の弟子達は、かたわらを歩かれる、主がわからなかった。それ
は目がさえぎられていたからとある。御言葉は、主イエスだとわか
らなかったと言っている。なぜ、わからなかったのだろう。「信じ
ない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目をさえぎっていたと。

復活を信じない彼らは、主が死んでしまったとの、絶望と深い落胆
の中にあった。悲しみもあった。私達も失望している時は、主が見
えない。「失望」とは、主を見限った不信仰だ。主を求めようとせ
ず、主に期待しようとしない。不信仰は私達の心をふさぎ、どんど
ん主を見えなくする。

又、「自己憐憫」は、自分はかわいそうと、自分の殻にこもり、主
を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。又、「不安」も目が
さえぎられる。思い煩いに支配され、心配の山だけが見えて、主が
見えない。主を締め出してしまう。「多忙」も、目の前の事柄に、
心が持って行かれてしまい、主を認める事をさせない。

今、どうだろう。目がさえぎられていないだろうか。目の前の障害
物に気づき、悔い改めよう。失望か、思い煩いか、自分の欲望か、
握り締めている、主より大切なものか。それらはおおいとなり、目
がおおわれてしまう。それを取り除けて頂こう。

主に向く時、視点が変えられ、発想が変わる。主を見るなら、希望
が与えられ、信仰が生まれる。目が開かれる。今も変わらず、あな
たのかたわらに主がおられる。
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すぐに自分の思いと常識に塞がれてしまうことを覚えていたい。主
から目を離して心配したり落ち込んでいないか。自分の思いは置い
て、主を見ていこう。約束の御言葉を握っていよう。