2023年10月23日(月)

「私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろう か。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだ ろうか。」ミカ6:6



.私たちは、自分の犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろ
う。ミカは、どこまで行なえば、受け入れてもらえるのか、と言っ
ている。何をもって御前に出たらよいのかと。一歳の子牛を献げた
らよいのか。いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油を献げなけ
ればならないのか。いや、それでも足らなくて、子どもを殺して、
献げる必要があるのか。

私たちの罪意識が強く来る時に、それを何とかしようとするなら、
子どもを殺すところにまで行くと言っている。これが「邪悪な良
心」だ。良心に邪悪なものがあるのかと、不思議に思うが、邪悪な
良心とは、神を認めない心だ。神のして下さった事を認めようとし
ない。

キリストの十字架により、主の犠牲により、決着がつけられ、解決
されている。すでに完了済みで、罪の赦しは成就されている。それ
を受け取らず、認めないで、それでは不足なので、何かをしなけれ
ばと思う心だ。頭ではわかるのだが、完全に赦されている事を信じ
られない。

赦されるはずが無いと思う。ありのままでは、御前に行けないの
で、信じるだけでなく、行ないをプラスして受け取ろうとする。少
しはきれいになって御前に出ようとする。肉の根深い価値観があ
る。そうでなく、無代価で、無償で、いっさいのかたが着けられて
いて、無罪放免だ。

この計り知れない大きなプレゼントを、恵みを、感謝して、受け取
る事が主の喜ばれる事だ。その時、血の注ぎを受け、邪悪な良心が
きよめられ、素直な心にされ、更に神に近づける。「ありがとう」
と受け取ろう。
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神の前には一人も義人はいない。くり返し神の前に悔い改めていく
事しかできない。それが「へりくだってあなたの神とともに歩む」
事ではないだろうか。悔い改めるごとに恵みを確信し感謝して生き
られる。