2023年12月23日(土)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに 人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ピリピ2:3



ある牧師が証しした。若い神学生の頃、学生仲間とトラブルが
起き、議論となり、それが高じて言い争いになってしまった。気ま
ずくなり、互いに口もきかない状態になった。相手が間違ってい
ると、腹が立って仕方がない。赦せない思いは、重苦しく、心悶々
であったが、絶対に赦したくないのだ。

しかし、賛美指導や説教の当番があり、順番に回って来る。こん
な怒りまみれの状態で、説教の準備など出来るはずもないのだが、
しかし怒りはおさまらない。とうとうせっぱ詰まり、主の御前に出て、
率直にあるがままを告げて祈った。いら立ち、さばき、赦せない
思い、敵対心・・何もかも打ち明け、主の御前にいた。

その時、主の十字架が、目の前に浮かび上がり、迫って来た。何
の罪も無い方が、罪を犯した者がかかる十字架にかかっておられ
る。代わりに罪を負われ、こんな自分のために、何もかもを、すべ
てを捨てて下さった。それにひき替え、自分はというと、自己主張、
自己防衛、自己憐憫、自己正当化、どこまでも、ただ〃自分、自分、
自分の事しかない。

議論になると自分の正しさを主張し、相手をねじ伏せたい。相手に
勝ちたいばかりだ。そこに愛など全く無かった。何という事かと涙
が溢れ、心から悔い改めた。心がすっきりし、赦されたことがわか
った。あれほどの悶々の心が、すっかり平安になってしまった。仲
間に謝り、和解できた。「・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十
字架の死にまでも従われた」主。その主を絶えず見つめ続けよう。

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しょっ中、ムクムクと自我が顔を出す。自己主張、自己正当化、自
己顕示、自己憐憫、日常生活で平安が失せる時は自分、自分に
なっている。まずはそれに気づけた事に、御霊の気づきに感謝し
よう。主の十字架を仰ぎ続けよう。