2024年03月23日(土)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信 じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」ローマ 4:5


ある男性が証しした。入社以後、第一線でバリバリに働いて来て、
どんどん成果を上げ、常に成績はトップだった。順調に昇進も果た
した後、現役を退く年齢となった。高齢となり足腰が弱って来てい
たが、とうとう車椅子となった。人の手を借りなくては、移動も
難しくなった。

今まで続けて来た礼拝出席も、一人では不可能な状況だ。昔はプラ
イドが人一番高く、人に助けてもらうのが嫌だった。人の手を借り
たくなかった。受けるという事が出来なかったのだ。又、頑張る事
が善、美徳と思っているので、受ける事ができない。そこに強いプ
ライドがあった。しかし今は老齢となり、その間に自分自身も様々
な取り扱いを通して、変えられて来た。

これから先、どうすればよいのか、主に切なる祈りを献げていた。
するとそんな中、礼拝出席へのサポートの申し出が来た。主とその
相手に心から感謝して申し出を受けた。祈りの答えであり、主から
の恵みと受け取れたからだ。感謝が溢れた。昔なら、つっ張って、
拒否した事だろう。助けを求める事ができないのが、自分の弱さで
あった。受ける事は上下関係に思えてしまっていた。

今は、主からのものと受け取れて、主とその相手に心から感謝でき、
自分自身も喜びと平安に満ちた。私たちもどうだろう。「自力、頑
張り」が強いと、何の働きもなく、無条件で与えられる恵みが、よ
くわからない。どうしても自分が頑張らなければと思ってしまう。
根深い価値観だ。「有難う」と受け取る事を言われているだろうか。

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「受けること」を学ばせられる。なかなか、受けることが難しい。
頑張ることが善という価値観がある。認められたり、評価される
ので、肉は満足だ。その頑張りが否定されると感じるだろうか。
受けることは、大きな祝福で、御霊の平安と喜びが来る・