2024年10月23日(水)

「アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日 でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている」 創世記22:14



アブラハムは、長い〃忍耐の末、約束の子イサクを得た。しかし彼
らも弱い人間であり、主の時を待てずに、奴隷によりイシマエルを
もうけた。だがヘブル書で、アブラハムは信仰の人として称えられ
ている。そして主ははっきりと、アブラハムを試練に会わせたと言
い、モリヤの地の山上でイサクを全焼のいけにえとして献げるよう
にと。主による試練だった。

25年も待って与えられた、最愛の息子だ。イサクから子孫が増え広
がるのであり、イサクが死んでしまったら、この大いなる祝福はど
うなるのか。アブラハムの心中は、どうであったろう。しかし「翌
朝早く」、アブラハムは従うべく、若い者たちと出かけた。そして
その場所が見えた時、若者たちは残るようにと。

自分たちは礼拝をして、戻って来ると言った。「私と子どもは戻っ
て来る」と。主を信じる信仰に立った。イサクが「いけにえの羊は
どこに」と問うと、「神ご自身が備えて下さる」と答えた。彼はこ
の事において、全き信頼を主に置いた。しかし、いけには無く、イ
サクをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間、手をその子に下すな、
と止められた。主を恐れる事がよくわかったと。

そこに代わりの羊が備えられていた。これは彼も知らなかった事だ。
主は「あなたが、このことをなし、あなたの子、ひとり子を惜しま
なかったから、確かにあなたを大いに祝福し」と大いなる祝福を受
けた。私たちも先は見えず、明日もわからない。しかし主はご存じ
だ。一歩〃この主に委ねて歩む時、一生涯の間、「主の山の上に備
え」を確かに経験し続けて行く。
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主の御約束は徹頭徹尾すべて成される。なのに状況に飲まれてしま
う。その中でも主の山の備えを経験すると、確かに主が備えていて
くださったと感謝が溢れてくる。主は備え、また守られる。