2025年08月23日(土)

「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうから です。この二つは互いに対立していて・・自分のしたいと思うことを することができない・・」ガラテヤ5:17


人が一番言いたくない言葉が、「ごめんなさい」だと言われ、自分の
非を認めたくない。プライドに触れるだろうか。心の内に、二人の
自分がいて、あらがう。一人は「人は関係ない。罪を犯したのは自
分であり、自分の罪だ」と言う。もう一人の自分は言い訳をし、理屈
をつける。「相手のせいで、自分はこのようにした。相手が悪い、自
分は悪くない」と自分を正当化し、罪を認めない。

罪を認める自分と、認めない自分がいる。しかし、根に、主に従お
うとする思いがある時、主は、頑なな思いを砕き、悔い改めへと
導いて下さる。心では、罪がわかっている。しかし自我が妨げ、
素直に認められない。人に注意されたなら、どうだろう。頭でわか
っているが、ムッとし、感情的になってしまう。

人に言われるとプライドが傷つき、心を頑なにする。自分の古い
性質であり、自我による事だ。しかし一方、それではいけないとの
思いもある。新しい性質だ。肉が改良されて、霊になるのではな
い。肉は、どこまでも肉、霊は、霊だ。相容れるところが無い、別
ものだ。「肉によって生まれた者は肉。御霊によって生まれた者
は霊」の通りに。

私たちは、この二つの間にあって選択する。肉を選ぶか、御霊を
選ぶか、御霊を選ぶなら、御霊の実を結ぶ。選べるよう助けを
求めて祈ろう。失敗した時は、悔い改めよう。主は「ごめんなさ
い」を喜ばれ、血潮のゆえに、完全に赦して下さる。何度でも赦し
続けて下さり、その度に主の愛の深さを知る。

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日常生活で、絶えず、二つの思いが来る。主に喜ばれたい、
従いたい思いと、自我から来る、自己中心の思いだ。自我が強
く、自然体なら、楽な方へと、肉に流されてしまう。自分では選べ
ない。助けを求めて、その場で祈ろう。御霊は選択を助けて下さる。