2004年09月21日(火)

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」(創世記39:2)

私達は物事がうまく行けば、「主が共におられる」と思っていないか。危険から奇跡的に助かったり、ラッキーな事ばかり起こったり、しかし、そうではない。ヨセフは試練の連続だった。兄達から妬まれ、隊商に売られる。しかし、主を見上げていると、エジプトで王に認められ全財産を任された。が、又、試練が臨み、王妃ゆえに無実の罪で投獄された。しかし、その時も「主はヨセフと共におられた」。どんなに絶望と落胆の中にも、神は共に折られる。これは決定的な事だ。主が絶望的な現実の中に共におられるのであれば、どんな状況にも耐えられる。これはヨセフにとっても私達にとって勝利だ。どんなに過酷な中にも主は共におられる。これは大きな慰めであり力だ。やがてヨセフは牢獄から出され総理大臣となりエジプトを支配する。最終的には何もかもが最善とされ、大飢饉の中、家族を引き取り、命を救う事になる。神は「共におられる」。過酷な状況の中に働いておられる。神を信頼せよ。
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順境も逆境も、等しく共におられる主。何と嬉しい事か。しかし、私達の側はどうだろう。主と共にいたいのだろうか。助けが欲しい時は共に、自分の思いを通したい時は、困るのでは。主は永遠に変わられない。常に共におられる主を、曇って見えなくしているのは自分自身。今日、焦点を主に当てて、主をしっかり意識して生きよう。