2006年07月23日(日)

「この人が罪を犯したのでもなく、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

盲目の原因を弟子達は、本人の罪
か、親かと主に尋ねた。私達は苦
しみがあると「なぜ?」と原因や
理由を知りたい。因果応報の思想
があり、自分の罪なら自分を責め
続け、親のせいなら親を恨む事に
なるのだろう。そこに何の解決も
無い。原因を捜し続けたところで、
前向きになれるだろうか。不信感
と落ち込みに至るばかりだ。主は、
不本意な出来事は誰のせいでもな
い。神のわざが現れるためだと、
全く違う視点からの答えを出され
た。神を信じて、神のわざが現れ
るためと、苦しみを受け止めて行
く時、そこに必ず神の恵みが見え
て来る。まず信じて行こうとする
事が大切だ。別の箇所で主は「神
が遣わした者を信じること、それ
が神のわざ」と言われた。苦しみ
の中で主の言葉を信じ、神が必ず
良くして下さると信じて行く人生、
それこそ神のわざだ。この盲人が
主の言葉を信じてみようとした、
そこにすでに神のわざが現れてい
るのだ。
・・・・・・・・・
厳しい試練の、苦しみや辛さの中で、
「神が必ず良くして下さる」と信じ
ようとする態度、これこそが神のわ
ざだ。奇跡だ。古い性質の中には全
く無い。不平不満愚痴のみだ。神に
信仰を向けて行く事自体がすでに
大きなみわざが現れている。