2006年09月22日(金)

 「なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」ガラテヤ2:16 

 

プライドは、救い、又、霊的成長の
ために大きく私達をはばむ。御言葉
は、人は救いのために何一つ出来な
い。罪ある者として主のもとに来て、
十字架の贖いに拠り頼まなければな
らない、と言う。これを人間のプラ
イドは受け入れられない。
自分の一切が否定されてしまうから
だ。まず、罪人などと受け入れ難い。
認める事はプライドが許さない。
プライドゆえに救いを受け取らない
人は多い。この世は性善説だ。
人間は本来善であり環境が悪い、そ
の環境を何とかして善いところを伸
ばして行けば、神のようになれると
考える。人々は良い人間になろう、
自分を高めようと懸命に努力する。
しかし、その努力は神に受け入れら
れない。そんな培われた古い価値観
が根深くあり、恵みによって救われ
た私達も、恵みは救いまでで、その
後は律法を行おうと自力で懸命に努
力する。私達にも根深いプライドが
あるのだ。罪は認めるが、ひとかど
の人間だと思っている。人よりもま
しだと。どうしようもない罪人だと
は惨めで思いたくない。又、自分の
頑張りを評価されたい。しかし、こ
のプライドを捨て、神に頼る事が救
いだ。
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朝毎に無力な自分を認め、祈りを
もって御言葉にたより歩みだそう。
自我は隙あらばむくむくと顔を出す。
知らぬ間に孤軍奮闘の泥沼に落ち込
まぬよう。