2008年04月20日(日)

「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:10

アダムとエバが罪を犯した後、神は悔
い改めの機会を与えようとされた。そ
れで「あなたは、どこにいるのか」と
問いかけられた。神の愛であり、あわ
れみだ。しかし、悔い改めるどころか、
「あなたの声を聞いたが、裸なので恐
れて隠れた」と言い訳し、言い訳をす
るために神に答えた。恐れはしても、
悔い改めはしない。罪の悲惨な結果は
嘆くが、悔い改める事はない。尚も神
は「木から食べたのか」と具体的に問
われ「ごめんなさい」と告白する機会
を下さった。何というあわれみだろう。
しかし「あなたが私のそばに置かれた
この女が」と、エバを置かれた神が悪
いと、自分を正当化した。エバもまた
蛇のせいにし、罪を無視し、どこまで
も悔い改めない。「ごめんなさい」が
言えない。頑固で強情で、非を認めな
い、自らの姿だろうか。罪の結果が、
人前に体裁が悪く、具合が悪いだけで、
自分が悪いとは思っていない。「その
方が来ると、罪について・・その誤りを
認めさせます」聖霊が罪を示される。
聖霊が示される時は、自分の罪しか見
えない。人などいっさいない。人がど
うのこうのなど無いし、人のせいにな
ど思いもよらない。ただただ自分の罪
だけが、見えるばかりで、悔いくずお
れる。心からの悔い改めが臨む。そし
て、その罪は赦される。これが「悔い
のない、救いに至る悔い改め」だ。
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「今日もし御声を聞くならば、心を頑
なにしてはならない」御霊の示しを拒
む事も、従う事もできる。御霊の導き
があるからこそ、信仰生活正しく導か
れる。従えるよう祈ろう。