2008年12月23日(火)

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす」ホセア8:12




神はイスラエルのために、多くの教えを与えられたが、彼らはその教えを他国人の
もののとみなして、自分たちへ向けたものとはしなかった。

自分とは無縁なこと、無関係であり、他人事としていた。私たちはどうだろう。
礼拝でメッセージを聞く時、又、デボーションで御言葉を読む時、他人事としていないか。

自分の事として聞かないので、どこまでも傍観者であり、右から左にすり抜けて行く。
御言葉が心に刺さることも、根づくこともない。

又、自分には当てはめないが、他人に当てはめて、あの人に、この人にピッタリだと。
あの人、この人は変わるべきだと。しかし、御言葉をそのように聞くべきではない。

ただただ自分の事として聞くべきだ。物差しを人に向けず、自分にのみ向ける事が大切だ。
人に向けると、いつしか裁きとなって行く。

他人の小さなちりに目をつけるが、自分の大きな梁に気づかない。
日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもののように聞いていないか振り返ろう。

メッセージを、御言葉を、自分自身に、自分の生活に当てはめよう。御言葉は光として、
心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿を映し出す。

心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、罪の指摘や矯正がある。
御声に従って行く時、必ず成長して行く。変えられて、新しくされて行く。
聞く態度が重要だ。
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御言葉を人に向けて行くなら逃げ道のない裁きとなる。ただ自分の事として御言葉に向きあって行こう。変わるべきは自分だ。変われますように、示されますようにの態度で。