2009年02月20日(金)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3



弟子たちの問いと、主の答えに大きな隔たりがある。人の見方と主の見方が全く異なる。人は、何か起こる時、その苦しみや不幸の理由をまず問う。

「なぜ?どうして?」「なぜ?なぜ?」と問うて行く。しかし、それは過去の事であり、現実にある事態が、起きた原因を追及しても、そこに解決は無いし、救いはない。

病で死にかけている人に対して、その病気の原因を追求したところで何にもならない。しかし、人はどうしても原因や理由を探し出さなければ、自分の納得が行かない。

自分が納得したいがために、「なぜ」「どうして」を探る。しかし、人は自分の意志で生まれたのではないし、自分の意志で死ぬこともできない。

与えられた一生は、自分の意志通りにはならないし、それぞれの人生は自らの思いを越えている。
そこに人間を越えた大きな力が働いていて、その方の意志通りに動いている。

私たちが生を受けたのも、今、ここにあるのも、神の大いなる御心による。
その神に焦点を置く時に、「なぜ?なぜ?」は意味をなさず、目が見えないことも、病気も、苦しい境遇も、思い通りにならない事態も、「神のわざがこの人に現れるため」なのだ。

あのせい、このせい、ではなく、神が働かれるためのステージであり、何と希望と平安と将来がある事だろう。
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神様の栄光が現れるための今だ。原因を問うよりも必ず神様が良くして下さるという希望を持って今日を生きよう。