2009年08月22日(土)

「たとい私が預言の賜物を持っており・・完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」Tコリント13:2

「預言」「奥義」「知識」「信仰」が出て来るが、御霊からのものとして言われ
ている。肉のものではない。

それが御霊から来る賜物であっても、それを用いる人間に、愛が無いなら、何の
値打ちもないと言っている。愛によらずに、愛無くして賜物が用いられる時、人
は必ず高慢に陥って行く。

信仰も強いが、自我も強いということになる。信仰と勘違いし、実は自己主張に
より、周囲と無意味な対立を生み出す。熱心だが、上に立ち、人を見下して裁い
て行く。又、愛の無い熱心は、時に分裂を生み出して行く。

御霊の実とまるで正反対の方へ向かって行く。正しく御霊に導かれているなら、
必ず信仰の成長に正比例して、心砕かれ、へりくだった者とされて行くはずだ。

愛が与えられるのは、愛の無い自分自身を心底認めることからによる。これが認
めているようで、認めていない。どうしても周囲と比較し、あの人よりましと、
自分を安心させる。

頭では認めるが、実際に自分に愛が無いなど、プライドが許さず、認められない。
心底認める時に、愛の無い自分をキリストの愛が自分をおおっている事を知る。
自分の力を頼っている限り、自分で頑張っている限り、主を締め出すことになる。

無力を認めてギブアップする時に初めて、キリストの愛に抱かれている事がわか
る。まず主の愛をしっかり受け取り、自分が主の愛に丸ごと浸り続ける事が大切
だ。
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愛の無い者を愛し、罪人である者のために、何もかもを捨て、命を捨てて下さっ
た主。栄光も地位も、プライドも、ご自身も、これ以上捨てるものがないまでに。
それが紛れもなく、私のためであることを今一度よく覚えよう。