2010年01月22日(金)

「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である」使徒7:33                

人が高慢にならないように、神は時に、人の計画を止められる。エジプトの王子
であったモーセは、40歳の時に、自分で計画し、虐げられている同胞を救おう
とした。しかし、エジプトの看守を殺してしまい。善をしようとしたのに、殺人
を犯してしまった。

そのために逃亡する事になる。ミデヤンの何もない荒野で、40年間、羊を飼う、
羊飼いの日々を送った。以前はこの世の栄華、地位、名誉のいっさいを手にして
いた。文武にたけ、脚光を浴び、あらゆる人脈を持ち、影響力があり、何の不自
由もなく、将来も約束されていた。

一転、無為とも思えるような、全く何もない荒野だ。スポットライトを浴びる事
も、かつての栄光も何もない。来る日も来る日も、羊を追い、それが40年だ。
モーセの心中はどんなものだったろう。

しかし、こここそが、神のモーセへの訓練、砕き、整えの場所であった。モーセ
はここで砕かれた。自分の計画でなく、神の計画に従えるように、神は着々と、
この荒野で事をなされた。造り変えておられた。

80歳になった時、神の時が来た。モーセを出エジプトの指導者として召し出さ
れた。「今、行け。民をエジプトから連れ出せ」と言われた時に、モーセは「私
は何者なのでしょう」と言った。以前の「自分が」「自分こそふさわしい」「自
分をおいて誰が」とのモーセは砕き尽くされ、へりくだった器に造り変えられた。

神は砕かれた器を、ご自身の働きのために用いられる。用いるために砕かれる。
痛い、辛い、苦しい状況にあるなら、神があなたを取り扱い、整えておられる。
実は大きな祝福だ。今いる場所は、神の聖なる地だ。信仰に立ち、受け止めよう。

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神の取り扱いが無ければ、どんなに高慢に、自己中心に、思いのまま歩み、尚且
つ気づきさえしない者だろう。放っておかれたなら、どうなってしまうかわから
ない。立ちはだかり、砕き、造り変えて下さるご愛に感謝しかない。