2010年02月19日(金)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10



パウロは「後悔」と「悔い改め」とを区別している。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが・・」の「悔いのない」は後悔のない事だ。

「後悔」と「悔い改め」はどこが違うのか。まず焦点が違う。「後悔」の焦点は自分だが、「悔い改め」の焦点は神だ。「後悔」は自分に焦点が合っていて、「自分」に向いている。自分の罪で、自分の面目を失い、体裁悪く、体面を汚してしまった。どうしてあんな事をしたのか。しなければ良かった・・。

後ろを見るばかりで、又、ただひたすら、関心は「自分」の事だけだ。人にどう思われるか、人の目が気になり、世間体が気になる。そこにあるのはただ自分だけで、神は無い。

「悔い改め」は、目が神に向く。自分の過失を悔いるだけでなく、自分の失敗が、神の栄光を傷つけ、相手を傷つけたことを悲しむ。神に対する罪である事を認め、告白し、赦しを求める。悔い改めは、全き赦しを得、必ず新たなる前進がある。
面目や体裁などいっさい眼中に無い、ただ自分の罪が見えるばかりだ。

神は悔い改める時、やり直させて下さる。私たちは何度失敗しても、再び立ち上がり、やり直せる。7度を70倍にするまで赦せと、ペテロに言われた主は、私たちに同じ事をして下さる。何度でも赦して下さる。
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神様が赦して下さったとしっかり受け取れるからこそ同じ罪はもう繰り返したくないと思い新しい力もまた与えられる。弱さや醜さを責め訴えて来るサタンの声を自分のものとせず「でも赦された、もう悔い改めた」と聞き流して行こう。